3.環境-東京ウッドストックホルム人間環境ロックフェスティバル
大学の卒業式を欠席した理由
私は、ノートルダム大学の卒業設計で「空飛ぶ家」を設計し、提案しました。その出来は、自分でも納得できるものでした。当時、卒業設計を対象にした学内コンペティションがあり、デザインと構造の2部門で優秀な作品を表彰しました。そのコンペティションで、私の「空飛ぶ家」は、両部門で2位になったのです。ところが、教授からは「現実的ではない」と酷評されました。その評価に納得できず、ふて腐れてしまいました。今思えば、大人げないことをしたものですが、どうしても納得できなかったため、卒業式にも出席しませんでした。
1971年にノートルダム大学を卒業しましたが、ふて腐れた気持ちは卒業後も引きました。普通なら、どこかの建築事務所に入所するところ、私は卒業設計が認められなかった反抗心から、建築家になることを拒んでいました。そこで、ノートルダム大学の近所に住んでいた日系アメリカ人が営む型枠会社で、アルバイトを始めました。私は、在学中、この日系アメリカ人夫妻と地元のロータリークラブの会合で知り合い、以降、ずいぶんと目をかけていただいていました。そのうち、このままアメリカにいても仕方がないと思い、帰国を決意します。
帰国して環境保護運動を展開
1971年、学生時代から変わらぬ長髪&ヒッピー風ファッションで日本に帰った私は、アルバイトの貯金もあり、建築家になることへの抵抗から就職活動はしませんでした。その代わりに、興味があった環境問題に取り組み、仲間を募って環境保護運動を展開していました。その集大成が、1972年に開催した「東京ウッドストックホルム人間環境ロックフェスティバル」です。何か、よく分からない名称ですが、ちゃんとした意味と遊び心があります。
きっかけは、1972年6月、ストックホルムで世界初の開催となった国連の人間環境会議です。1971年には、開催が決まっており、私たちは世界初の人間環境会議に向けて、「日本でも何かできないか」と思い、ロックフェスティバルを考えました。名称については、1969年にニューヨークの郊外の港町で開かれた大規模な野外コンサートで、後に伝説となる「ウッドストック・フェスティバル」にかけています。
出演者は、当時、日本で最も人気があった5組のアーティストに出演を依頼しました。彼らは、ノーギャラにもかかわらず、私たちの思いに賛同して快諾してくれました。そのメンバーは、ジョー山中さんが参加していたフラワー・トラベリン・バンドや内田裕也さん、ミッキー・カーチスさんらそうそうたる顔ぶれでした。
一番苦労したのは、資金集めです。当時、日本は高度経済成長期で、企業を回れば協賛金を集めるのも難しくない状況でした。しかし、私たちは「環境を汚しているのは企業であり、その環境を犠牲にした金を使うことはできない」と、自分たちの貯金を持ち寄ったり、親族や友人から借金したりして資金を集めました。どうにか、資金も集まり、会場である日比谷野外音楽堂を押さえて、ポスターやチラシ、チケットを制作しました。
ポスターには、第3代国連事務総長のウ・タント(任期1961-1971年)を勝手に採用しました。ウ・タントは、ビルマ(現・ミャンマー)出身の教育者で、国際連合大学の創設を提案するなどの実績がありました。その実績から、かのジョン・レノンも高く評価していました。そんなことがあったので、私はウ・タントの顔写真に、ジョン・レノンが愛用した丸型眼鏡と長髪をコラージュしてポスターにしたのです。
ところが、これがいけませんでした。PRのためにマスコミを呼んで記者会見を開きましたが、ヒッピー風ファッションに身を包んだ若者たちが、勝手にウ・タントの写真を使用し、さも国連と関係あるかのようにPRするのでうさんくさく見られたのでしょう。私たちは、「We are the peoples of the United Nations」、つまり「地球上の人間は全員、国連に所属する」と主張したものの、結局、集まった約10社のマスコミのうち、記事にするところは1社もありませんでした。そんな中、唯一、テレビで1分間だけPRできたのは幸いでした。
ロックフェスティバルの成功と挫折
とうとう、フェスティバル当日を迎えました。あてにしていたマスコミに冷たくされ、客入りが心配でした。しかし、始まってみれば、客席は満員で大盛況のうちにエンディングを迎えることができました。ただ、借金を重ねて開催しましたから、収益は会場を人が埋め尽くしたにもかかわらず30万円でした。この収益金の用途は、はじめから寄附することに寄附決まっていました。寄附先は、環境汚染によって引き起こされた世界初の公害病と言われる水俣病の患者さんたちです。私は、フェスティバルの後片付けがひと段落したころ、水俣病患者の代表者に連絡しました。
しかし、代表者は「君たちのような若者たちに水俣病を利用されて、ロックコンサートを開かれて困惑している」といった内容の苦情を言い、寄附を断りました。この言葉を聞いて、私は一気に落ち込みました。まだ、若かったんですね。自分がよかれと思ってしたことが、相手を困惑させてしまう結果になるとは思いもしませんでした。この言葉にショックを受けた私は、環境保護運動から離れてしまいます。ちょうど、貯金が尽きた時期でもあったので、長髪をばっさり切り、ヒッピー風の服からスーツに着替えて、ネクタイを締めて就職活動を始めました。さすがに、このときばかりは建築家になるのを拒む余裕はありませんでしたね。



